登 高







「本日より、張清を冢宰府付に任ずる」

朗々した声は傍らの秋官のものだった。

凛とした雰囲気を漂わせた青年は深々と一礼し、

「臣、賜りました任を全力をもって果たし、赤心をもって聖恩にお応えいたします」

引き結ばれた唇から滑らかに返答する。

「頼みにしている」

掛けられた声は若い娘のもの。柔らかなまろみを帯びた声音は低く、落ち着いた様子で。

顔を上げそうになる衝動を全力で抑え付け、ひたすらに床を凝視する。

分かっている。いつもの華やいだ声がここで響くことはないのだ。

「身に余る光栄でございます」

きつく目を閉じ、楽俊はもう一度、愛する主君へと一礼した。






…………ようやく、ここまで来た。

正午を過ぎ、重厚で雅やかな回廊を渡れば涼やかな風が頬をくすぐった。

楽俊は軽く嘆息する。美しい宮城。瑛州堯天、金波宮。

正装した身体に心地よい疲労感がある。

謁見が済み冢宰府へと案内された楽俊は、まず浩瀚に挨拶をした。

他国でも切れ者と名高い冢宰は悠然と微笑み、楽俊に与えられた仕事の内容を説明した。

「仔細はおいおい説明するが、しばらくは私の仕事を手伝ってもらう。

その間に宮城、官邸の様子と、各官の顔と名前を覚えておくように」

「かしこまりまして」

生真面目に拱手する楽俊に、浩瀚が思わず笑みを漏らす。

「…………?」

訝しんで僅かに瞳を上げると、浩瀚が怜悧な顔に悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

「本当は、今日からでも政事に参画して頂きたいのだが。ただそうなると

楽俊殿のことを知らぬ輩が何を言うか知れない。無用の摩擦が起こらぬように

配慮せよと申し付かっているので、しばらくは分にあわぬ仕事をしてもらわなければならない」

意外な告白に、楽俊は思わず目を丸くする。

張清という人物が景王登極にあたって非常に重要な役割を果たしたことは、王の身近な

者しか知らないことだった。そのため、殆どの人間には楽俊は単なる新官吏にすぎない。

「新参者ですから、当然のことです。お気遣いは嬉しく思いますが、特別扱いは

私の望むものではありません」

浩瀚は得たり、と頷いた。

「そこで、他の者が気の毒がるくらい扱き使うのでそのつもりで」

「………は…」

冗談なのか本気なのか判別の付きにくい浩瀚の言葉に楽俊は再度瞠目し、それから慌てて

拱手する。

「…………つ……謹んで承知いたしました」






王へ奉じる書の清書が、楽俊の金波宮での最初の仕事になった。

清書と言ってもただ書き写すだけではない。冢宰府に各官から様々に入り乱れた報告を整理し、

まとめ、成文化する作業なのである。畢竟、解釈を一つ間違うととんでもない間違いを王に

奉じることになりかねない。毎日のことで面倒なことこの上ない仕事でもあり、非常に繊細で

責任重大な仕事でもあるのだ。浩瀚がその仕事を任すと言った時、先輩官吏達は一様に

気の毒そうな瞳を楽俊に向けた。慶の制度やその流れをつぶさに見てきた楽俊ならば

大丈夫だと浩瀚は言ったが、当の楽俊も正直、これは荷が重いのではないだろうかと思った。

とにかく昨日までの奉書と各官からの報告書、その資料、と机の上を書類の山にしてそれを

参考に今日の分を作成する。奉書を一通りざっと見て、書面の要領を掴んだ楽俊は

次に報告書と資料に目を通した。所々報告書自体の信憑性について違和感を感じる部分が

あるものの、そこは心の帳面に記しておいて、後で調べることにしようと思う。

その作業に一刻ほど費やし、出来上がったものを浩瀚に確認してもらうと浩瀚は幾つか質問した。

それがことごとく楽俊もまた違和感を感じたものだったので改めて浩瀚の有能ぶりには驚嘆した。

楽俊は報告書と資料を渡し、自分の意見も述べてその信憑性について疑問が残ることを

説明した。浩瀚は頷き、この国にはまだそういうものが残っている、と硬い声で言った。

「今は随分ましになったけれど、かつての奉書は酷いものだった。すべてが嘘だと言っても

過言ではなかった」

低い声に、楽俊は目を伏せる。故国の窮状が脳裏を横切った。国が滅びるというのは

そういうことなのだろうと思った。

「報告書から嘘偽りで糊塗されている。報告書が正しくとも奉書する段階で解釈を故意に歪められる。

また、故意ではなくとも正しい目を持たないが故に解釈が違うこともある。さらには、日常が解釈を

事務的な作業に変えてしまうこともある」

楽俊は粛然と俯いた。浩瀚の目に、自分の書いた書は歪んだ解釈だったのだろうかと思ったのだ。

しかし、と、浩瀚は穏やかな笑みを浮かべた。

「そういう点で、この書は優秀だ。秀麗な文字もさりながら、解釈は正しく、丁寧で、主上にも報告書にも

おもねる部分がない。今の慶の状態が良いところも悪いところも明晰だ」

楽俊が目を瞬かせる間に、浩瀚は奉書を流麗な手つきで匣に納めた。王に奉じる際の文匣だ、と

気付いて楽俊は身体が熱くなるのを感じる。

「同じ要領で、明日からも励むように」

「かしこまりました」

浩瀚は微笑んで頷く。

「それから、すまぬが書物蔵でこの資料を探して来てくれるか? 明日の朝までに私の机の上に置いて

いて欲しい。それが終われば今日の仕事は以上だ」

「承りました」

楽俊は浩瀚にだけ伝わるように安堵の微笑を向け、資料を記した紙を受け取ると丁寧に一礼した。






院子に出て、楽俊は大きく息を吐いた。緊張してよどんだ胸の中の空気を追い出し、何度か深呼吸する。

明日、陽子はあの奉書を読むのだろう。筆跡に気付いてくれるだろうか? 内容を見てどんな感想を

述べるだろう?

楽俊は書物蔵へ足を運びながら、ぼんやりと愛しい少女の姿を思い起こした。

嬉しい気持ちの傍で、切ない気持ちがちくりちくりと胸を刺していた。

今日の陽子はどんな顔をしていたのだろう? 王と、臣下。 永遠に越えられない身分と立場。 

それでもいいと願った。後悔なんてない。ましてや未練など。

ただ、当たり前に顔を見合わせて笑い、対等に話し、微かな触れ合いに熱を分かち合うことは

もう過ぎた日々なのだと思うと、新しい関係を築いていかなくてはならない未来に不安を感じた。

どんな顔で会えばよいのだろう? 永遠に俯いたままではいられない。

どんな言葉で語ればよいのだろう? 王である彼女に。

この世が二人きりならば悩みなどなく在れたものを。

書物蔵の前でもう一度太く嘆息すると、楽俊は扉を開けた。埃と混ざって覚えのある独特の

書物の匂いがした。風を通すためか仄暗い蔵の中に窓から斜めに光が差し込んでいる。

何故か落ち着く雰囲気を感じ、また、調べ物はここでしろということかと言外の浩瀚の意図を

察して楽俊は改めてその差配に感謝した。






楽俊はまず目録を確認しながら資料を揃えると、その内容を頭に叩き込んだ。

資料の大部分は地官と夏官の過去の記録だ。主に、土地の管理に関するものと、各地の

土木工事の詳細について。楽俊は目を細める。今日の虚偽の可能性がある報告書も土木工事に

関する部分だった。一読しただけで不審な点は山のように出て来た。賄賂、横領、官吏の腐敗。

短命な王朝が続いた慶国には隅々にまで黒い靄が行き渡っている。

粘り気を帯びたその靄を無理に剥がせば国が傷付くことは、過去の歴史からも明らかだ。

すっかり清め払ってしまうためには、根気強く少しずつ拭い取っていくしかない。

長い苦難と一国の重みを感じ、楽俊は玉座に座る陽子を思う。さぞや、疲弊しきって

いたことだろう。

苦い思いで読み進めて、ふと、足音を聞き取って楽俊は顔を上げた。

軽やかな足音は真っ直ぐにこちらに向かって来ている。楽俊はそっと書面を閉じ、

一纏めに揃えた。閲覧した記録は余計な詮索を、と訝られないように丁寧に元に戻す。

資料を抱え、書物蔵から出ようとしてちらりと足音の人物に目を遣った瞬間、

「…………よッ……!」

陽子、と叫び掛けて慌てて口を噤んだ。さらに陽子も陽子で、吃驚して立ち尽くしている。

楽俊は慌てて周囲を見渡し、他に人がいないことを充分に確認して陽子の手を引いた。

陽子は逆らわない。するりと蔵の中に潜り込むと扉を閉め、お互いに呆然として向き合う。

「なんで陽子がこんなところに?」

様子からして楽俊に会いに来たわけではないようだった。

「楽俊こそ。冢宰府じゃなかったのか?」

陽子の緋色の髪は綺麗に結い上げられ、いつもよりはちょっと上質な、けれど一国の王としては

質素すぎる袍を身に纏っている。驚きのために見開かれた煌々とした翡翠の瞳は、しかし、

いつもと変わりない。

「浩瀚様の御用事で資料を取りに来ていたんだ」

奇妙な安堵感を覚えながら楽俊は手に抱えた資料をちょっと持ち上げてみせた。

「わたしは、浩瀚から報告を聞いていて、興味のあったところをもっと詳しく知りたいと思って……」

それで、と言って陽子は絶句した。どうやら、嵌められたらしい。

「その資料がここにあるって?」

「う、うん……。浩瀚がまた持ってくるって言ってくれたんだけど、今日はもう仕事はないし、

自分で取りに行くって言って……」

陽子の頬が紅潮する。

「浩瀚様は陽子のことはすべてお見通しなんだな」

楽俊は笑った。少しばかり苦いものが通り過ぎたが、気付かないことにする。気付いたところで

今更何になろう? これから、時間を掛けて知っていけばいいのだけのことだ。

楽俊は笑いながら首を傾げて訊く。

「それで、どの記録が見たいんだ?」

陽子はちょっとの間きょとんとしたようだったが、

「えっと、達王時代の市の統制制度……」

「ちょっと待ってな」

言い置いて楽俊は蔵の奥に進んだ。陽子はちょこちょこと後ろを付いて来る。

「この辺で先刻見たんだが……ああ、これだ」

楽俊が手渡すと、陽子は何とも形容のし難い顔で楽俊の顔を見つめた。

「どうした?」

「いや、いつもの楽俊だな、って思って」

「……………」

瞬間、強張った楽俊に気付いて陽子は慌てて首を振った。

「違う、そうじゃないんだ楽俊。わたしは、今朝すごく怖かったんだ」

「怖い?」

震えそうになる声を極めて強固な意志で自制し、楽俊は聞き返した。

「楽俊が楽俊じゃないような気がした。わたしの知らない臣下の一人のように思えた。

怖くて声を掛けたのに、わたしを見てくれることもなくて」

「それは………」

口を開いた楽俊を制し、陽子は頷いた。

「分かってる。でも、分かりたくなかったんだ。だから、怖かった。今日、楽俊がどんな顔を

していたのかとか、これから、どんな顔をして会えばいいのかとか、どんな風に話せばいいのかとか」

紡ぎ出された陽子の言葉に楽俊は瞠目した。

「陽子」

どうして、彼女はこうまでも残酷に愛情を捧げてくれるのだろう。知らず、胸を押さえた。

同じ想い。同じ言葉。

「今までとは違う新しい関係を築いていかなくてはならないということがすごく不安だったんだ。だって…」

「陽子」

同じ不安。同じ恐怖。

「もしかしたら、その、楽俊はわたし以外に……」

「陽子!」

最後まで言わせず楽俊は強く名を呼ぶ。陽子は項垂れた。

胸が、痛かった。

陽子の気持ちは痛いほどよく分かった。全く同じ気持ちを、楽俊もまた抱えていたから。

新しい関係が、王と臣下というただそれだけになり、お互いに、お互いの気持ちが失われることを

恐れていた。お互いに同じ宮城のもとにいる限り、これまでのように人の目を気にせず触れ合うことは

難しいから。

「ごめん」

かそけく呟かれた言葉に、楽俊は首を振った。

「別に、怒ったわけじゃねぇ。おいらが、聞きたくなかっただけだ」

陽子の瞳が潤むのを見て、楽俊は切なくそれを見遣る。

「この世が二人きりだったら良かったのにな」

そうすれば、泣かせることなく、いつまでも抱きしめてやれるのに。

陽子は瞳を上げ、楽俊を見つめた。僅かな逡巡があって、陽子は口を開く。

「抱きついてもいい?」

陽子の言葉に楽俊は苦笑した。

「慎みを持てって言ってるだろ?」

言いながら、楽俊は腕を開く。次の瞬間には、陽子の柔らかな身体がぴったりと触れていた。

穏やかな熱を共有する。

陽子を抱きしめながら、陽子への愛情は二通りあっていいのではないか、とふと思った。

臣下の君主へ対する敬愛と、愛しい恋人を想う思慕とを。

簡単なことではないかと思う。王に恋したわけじゃない。

恋した愛しい人である彼女が王だったというだけのこと。

「また、二人だけで会いたいな」

未練を残して身を離す陽子に、楽俊は首を横に振った。

「約束はしねぇ。 ……ここはお前が王で、おいらが臣下であるべき場所だから」

「………ああ」

陽子は悄然としながらも頷いた。

「うん、そうだな。すまない。楽俊を侮ることを言った……」

俯く陽子に、楽俊は僅かに口角を持ち上げる。優しく陽子の顔を覗き込み、

「でもな、また『偶然』においらがおいらの状態でいる時に会えたら、その時は、

また今日みたいにしたいと、おいらも思う」

見つめる先で、陽子の顔が見る間に薄紅色に染まっていった。

「『偶然』に?」

「『偶然』に、だ」

ふわりと、陽子は晴れ渡った空のようにきららかな笑みを浮かべた。華やいだ声音が、

その鮮やかな色の唇から零れる。

「じゃあ、その機会を待ってる。頑張って仕事をしたら、きっと御褒美として『偶然』があるかもしれない」

「きっと、そういう狙いなんだろうなぁ」

苦笑して楽俊が言うと、構うものか、と陽子はもう一度楽俊に抱きついた。

今度は心構えがなかった楽俊は受け止めきれず、うわわっ、と狼狽する。

「次までの補充」

細い腕が首にまわされる。焦がれ、希んでいた甘く優しい体温。

「じゃあ、わたし、もう行くね」

呆然とする楽俊を残し、陽子はそそくさと足早に立ち去る。

「あ、陽ッ……」

引き止めかけて、楽俊は口を噤む。逆光の中で、陽子が振り向いたのが分かった。

脳裏に膨大な数の言葉が渦巻き、

「………明日の冢宰府からの奉書、書いたから」

唯一感情からかけ離れていたその言葉を、切なく楽俊は紡ぐ。

「そうか」

心底嬉しそうな声音が返ってくる。

「じゃあ、明日から楽しみにしてる。毎日、楽しみにしてる」

「うん。じゃあな」

おいらも狙い通りだったってことかな、と楽俊は微苦笑する。

嵌められたことが悔しいわけじゃない。けれど、いつか王と臣下という立場でも誰よりも

近しく在りたいと願うのを、醜い野心だと哂っていた過去の自分へどう言い訳すれば

よいのかと恨みがましく思うのだ。

「王になんてものには関わらねぇって思っていたんだがなぁ……」

正丁だと認められたら。一人前に職につけたら。学校へ行って思う存分勉強が出来て、

自分の力を試すことが出来たなら。そうすれば、満足出来ると思っていたのに。

楽俊はまた軽く嘆息をついて浩瀚から頼まれた資料を抱えなおす。

冢宰府までの回廊を戻りながら、楽俊はぼんやりと考える。

これからの未来を思い煩いながら。






















…………ようやく、ここまで来た?

否。

もう、こんなところにまで来てしまったんだ。










































了.
2003.5.26.









緋魚様から頂いた「登高」SS&イラスト



2003年のお誕生日祝いとして頂いたSS「登高」・・・これだけでも鼻血MAXだというのに
こんなステキなイラストまで頂戴しちゃいましたvv
初めて緋魚さんのサイトへお邪魔したきっかけは、サイトバナーの美麗楽俊絵に一目惚れv→音速の勢いで左クリック!!
だったので、最初はSSではなくイラストに惚れ込んでたのですvv
緋魚さんの柔らかくて可愛くて優しげで、でもどこか色気のあるイラスト、大好きなのです!
官吏になった楽俊の正装姿・・・・・・・た ま り ま せ ん (ヨダレMAX)
薄暗くも黄昏の柔らかな光が射し込む書物蔵で資料を探す楽俊のこの表情・・・・・・・・・・・・・
萌え・・・・・・!!


「登高」は私の「慶の官吏になった初日の楽俊」というリクエストをもとに緋魚さんが書いてくださいましたSSですvv
互いに互いの立場と責任を理解し尊重しあう姿に、これぞ楽v陽!
という気持ちと同時に切なくなる・・・・・・・・
でも互いの距離が縮まれば縮まるほど障害は多く切なくなるのが楽v陽・・・・・・・!!
まさに「これぞ楽v陽!!」な作品ですよね〜〜〜vvv
はたから見ればそれだけでも凄いことなのに、慶の官吏になる事や陽子の傍にいられる事をゴールとせず
シビアな目で先を見据える楽俊…
やっぱり緋魚さんの楽俊は私にとって公式楽俊です…!!!(*><*)

緋魚さま、すばらしいSSならびに美麗なイラストをくださいまして
どうも有難うございました〜〜〜〜〜vvvv




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