一度たりとも、口を塞がれることはなかった。最初に告げられた通りに、最後まで。どさりと崩れ落ちてきた彼の素肌は切ないほど温かく。噛み締めていた袖をようやく解放すると、強張っていたおとがいのぎしぎしと軋む音が聞こえた。卒業を数日後に控えていた。慶での仕官が決まって、祝いの酒宴の後のことだった。きっと、何もかも考え抜いた挙句の行動だったのだろう。一時の激情ならば、止めることも拒絶することも出来たはずだった。………けれど。常になく無理に酒を勧められ、断りきれずに飲み続けた。急激な眠気と手足の制御困難を感じた時には、もう、何もかもが手遅れだった。次の瞬間、灯火は消えていた。真っ暗闇の中で、身動きが取れなくなった。
己の両手が彼の片手だけで拘束され、横たえられた体に重みを感じ、ようやく。何が起こったのかが理解できた。「何を………!?」叫んだつもりの声は、激しい衝撃のためか、かすれていた。その声に彼の苦笑する気配が感じられ、そして続いた声は、驚くほど静かなものだった。「嫌なら、もっと大声で叫ぶんだ。そうしたら、俺は除籍だ。もう二度とお前の前に現れることはないから……」「―――――――。」除籍、の言葉に喉が詰まった。声が、出せなくなる。「口は塞がない。いつでも、助けを求めろ。終わりを決めるのは、お前の役目だ」静かな声が、闇に溶け込む。彼の細い骨ばった指が、襟にかかった。もう一方の手は、未だ両手を拘束したままぴくりとも動かない。首筋が露わにされ、胸元が寛げられ、瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。「………………つっ!!!」その悲鳴の高さに、ひやりとした。けれど、誰も気付かなかったらしく、周囲が騒がしくなることも、誰かが堂室に飛び込んでくる気配もない。そんな心配を気に掛けることもなく、指はその間も止まることなくするすると服を取り去り、素肌を露わにしてゆく。どうにか誰にも見つかることなく、この場から逃げ出す方法はないものかと身をよじったが、両手はがっちりと押さえ付けられ、絡められた足はばたつかせることさえも出来ない。それでもなおもがき続けて征服から逃れたいという望みを捨てずにいると、不意に下肢に触れられ、声をあげそうになって袖を噛み締めた。彼の苦笑する気配が、素肌を通じて感じられた。誰の肌も知らぬ晩生な体を笑われたのか、助けを呼ぶことを自ら放棄したその愚かさを、嗤われたのか。確かなことは、彼によってこの体が征服されていくという事実。唇が胸元を彷徨い、わき腹を甘噛みし、所有印をつけた。その間にも指は熱の中心に触れ、欲望を煽る。初めて人に触れられた体は羞恥で血の色に染まり、炎の塊を飲み込んだかのように灼熱に火照る。頭の奥がじんじんと痺れた。次第に目の前が白くなってゆき、何も考えられなくなる。「―――――――!!!」快楽に慣れぬ体は、すぐに悲鳴をあげて、屈服した。そのみじめさとなさけなさに、涙が零れそうになる。こんな関係を望んだことはなかった。ただ穏やかに、知的に、そして時には悪童のように無邪気に笑いさざめき、ずっとお互いを支えあえていけたらと。そう、願っていたのに。指はさらに奥まで侵入しようとしてくる。絶頂にがくがくと震える体はなかなかそれを受け入れることは出来なかったけれど、彼の手が止まることは、なかった。ためらうことも迷うこともなく。許しを請うこともしない。それは、ただの支配。他人の肉体とその輪郭を生々しく感じ取り、体中が震え上がった。胸の奥が何度も刺されたかのように激痛を訴えた。四肢がばらばらになる。無理やり押し込められた感情を受け止めきれない。容れ物が壊れて溢れてしまう。なのに、まだ生きている自分が不思議に思えた。入学してきた時から、お前を見ていた。そう、彼は言った。最初は、主席というのがどんな奴なのか、ただそれだけだった。でも、お前が俺を見た時、その時に勝負はついたと思った。振り向いたお前の目が、なんて不思議な目なのかと息が止まったんだ。
まるで俺の醜い部分のすべてを見通すようで、だけどひどく優しくて。
悔しかった。俺はお前に届かない。はじめて誰かを一途に想って、この胸が痛かった。
お前は他の誰とも違っていた。
いつも心が何かと闘っていた。
流れる雲の彼方に何かを見ていた。助けてやりたいのに、傍にいることしか出来ない自分が苦しかった。
逆になぐさめられて、だけど他の誰よりも近い距離にいられて。
いつか自然にその胸の秘密を分けてくれると信じたかった。お前の特別になりたかった。雁で一緒に官吏になって、同じ場所で在り続けたかった。でも、お前は慶に行く。だから、その前に、お前の中で俺という存在を特別にしたかった。………………たとえお前を失うことになっても。「特別だったよ」と。朦朧とする意識の中で答えたような気がする。お前は、一番の親友。けれど、彼は哀しそうに首を振った。違う。俺の望む特別は、お前の言う特別じゃなかった。どうして、同じ特別でいられなかったのだろう。どうして、この気持ちには"有る"と"無い"しかなかったのだろう。真ん中なんてなかった。俺がお前に望む特別の場所は、別の人間が住んでいた。慶にいるそいつは、俺からお前を奪っていく。だから、何でもいい。お前の特別になりたかった。忘れられない、俺とお前だけの特別を作りたかった。それがこういう手段だったのは、俺がみじめな生き物だからだったんだ。………………なぐさめなくてはいけない、と思った。でも、翻弄されて喘ぐ喉では、思う通りに声を出すことさえも困難で。もう、会わない。俺の望む通りに、お前の特別になれたから。在り難かった親友の。ひどく落ち着いた声が、血の涙のように零れた。穏やかな吐息が唇に触れそうに近づいて。………………けれど何故か、触れることなく離れていく…。……行くな。叫びたかった。けれど、扉の向こうへ消える彼の背を最後に、視界は途切れた。一度たりとも、口を塞がれることはなかった。最初に告げられた通りに、最後まで。もしかしたら、彼は終わりを欲していたのだろうか。拒絶と破局を。永遠に続く友情よりも、終焉を求めて。最後まで、彼は終わりの言葉を求めて口を塞がなかったのだろうか。ならば、と今になって思う。彼に与えるべきだったのは。この体でもなく、特別の言葉でもなく。………………ただ一度の、口付けだったのかもしれない、と。
2003.11.26.
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