抱 擁





胸が苦しくなるというのは、息苦しいというよりも痛みに近いものなのだな、と。

そんなとりとめのないことを、ゆらゆらと泳ぐ視界の中で思った。

「楽俊も一緒に入る〜?」

背後からののんきな彼女の声に、首筋がカッと熱くなる。

「は、入るわけねぇだろっっ!!」

悲鳴にも似た返事に、ころころと笑う気配があって、

「ごめん、冗談だよ。楽俊。怒らないで」

微量の笑みを含んだ声がまた返ってくる。

「別に・・・・・怒ったわけじゃないけど・・・・」

そう言ってしまってから、大きな溜息が出た。

そう、確かに怒ったわけではないのだ・・・・。けれど・・・・・。

そもそも、どうしてこういう事態になってしまったのだろう、と楽俊は頭を抱えた。

雁と慶、奏の三国間で、巧と柳の荒民の話し合いが持たれることになったのは三月ほど前のこと

だった。

その協議のために雁を訪れる度、陽子は必ず時間を見つけては楽俊の部屋を訪問しては

色々な話をしていってくれた。

協議のこと、国のこと、友人のこと、自分のこと。

そして今日も、いつものように遊びに来て、夕方に景麒が迎えにくるまでと、ゆっくりと語り合って

いたのだ。

・・・・・・・・ところが。

その景麒が、待てど暮らせど迎えにこなかった。

夕方が過ぎ、宵になり、夜になって。仕方なく玄英宮の御馳走とは比べ物にならないような

粗末な夕食を作って二人で食べ。さらにまたしばらく語らい・・・・・・・。

深夜近くになってついに怒った陽子が、「この後に景麒が来たってもう戻らない。今日はここに

泊まっていく」と言い出したのだ。

長年の経験から言って、楽俊であっても、こうなった時の陽子の気持ちを変えることは不可能

だった。

責任感の強い堅忍不抜という言葉がぴったりの彼女は、悪く言えばてこでも動かせない頑固者でも

あって・・・・・。

――――夕方に来るといって、迎えに来ない景麒も悪い。

・・・・・・そう言い訳して、寝床と湯の用意をした楽俊だったのだが。

「先にありがとう。次どうぞ」

意外に近い背後から掛かった声に、つられてひょいと振り返った楽俊は、

「・・・ちょっ!!」

慌ててまた顔をそむけた。

「呼ぶのは、ちゃんと服着てからでいいから!!」

「着てるよ?」

薄物一枚を身に付けただけの陽子はけろりとして答える。

「それは、こっちじゃ下着。上にちゃんと着ろってば」

「・・・・・・ああ、ごめん」

しゅんとした顔の彼女に、胸が痛くなる。怒ったわけではないのだ。

そう、怒ったわけではない・・・・。 ・・・・・・けれども一度、しっかりと注意した方がいいのかも

しれない。蓬莱育ちの彼女の、服装に関する常識がこちらと全く違っていることに気付いたのは

そう遠くない昔のことだった。

それは、陽子が夏の暑さに耐えかねて、泳ぎたいとわがままを言い出した折のこと。

延麒が持ってきた「水着」とやらに、楽俊は絶句した。

群青色の。子どもが着る胸当てのような形の上衣に、薄物の裙。

陽子のことを充分理解しているつもりの楽俊がこれだったのだから、景麒が倒れたというのも

頷ける。

それでも充分に目のやり場に困るような扇情的なものだったのに、延麒によると、陽子の指定した

ものはもっと肌を露出するものだったらしい。

あとになって見せて貰った書物には、延王や鳴賢が見れば喜びそうな衣装が大量に記されて

あった。

「蓬莱とこっちじゃ常識が違うっていうのは分かるけどな、頼むからもう少し女性として・・・・・」

「慎みを持てって・・・・?」

笑いを堪えるような気配。

「でも、よく少年に間違われるんだ、私。だから微行の時なんかは結構便利なんだよ」

「・・・・・・・・・・」

楽俊は溜息をつきそうになって、危ういところで飲み込む。

そう言えば、自分も陽子のことを少年と思いこんでしまった前科があった。初めて彼女と出会った

時のことだ。

濡れた服を脱がせようとして、己の間違いに気がついた。

役人に追われ、妖魔に襲われ。ひどい旅を送っていたのだろう。女性らしい丸みはこそげおち、

鎖骨や肋骨がごつごつと浮き出ていた。

ただ、男性にないはずの淡くふくらんだ胸が、彼女が確かに女性であることを示していて・・・・・。

「・・・・論点をずらさねぇでくれ」

頬が紅潮するのを抑え切れず、楽俊は慎重な動作で陽子の視界から表情が隠れるように角度を

変える。

先程見た薄物一枚羽織っただけの陽子の体つきは、明らかにあの頃よりも女性らしい線を

描いていた。

男の体には持ち得ない、やわらかそうな、優しい丸み。

「他の皆は諦めてるのになぁ・・・・。 私のことを女の子扱いするのって、今ではもう楽俊だけだよ?」

―――当たり前だろう。

そう、言いかけて。

楽俊は開きかけた口を噤んだ。

彼女を女性として、否、異性として認識した時から、楽俊の気持ちはひとつの方向に定まって

しまった。

そんな気持ちがもう数年も続いている今、彼女を他の存在として見ろというのは酷な話だ。

まだ、言えない。

まだ、何も成していない。まだ、彼女にこの気持ちを伝える時期ではないから。

「女の子扱いも何も、実際、女の子じゃねぇか」

そして楽俊はといえば、普段は鼠姿の半獣といえど、まがりなりにも立派な成人男子なのだ。

「そうなんだけどさ・・・・・」

陽子が楽俊のことを成人男子だと強く意識していないのは、人型をあまり見せていない楽俊にも

責任があるかもしれない。

けれども、人型で陽子と接して、万が一間違いが起こったらどうするのか。

鼠姿は、理性と本能の間でせめぎ合うこの緊張状態の中での、楽俊の最後の防衛線なのだ。

知らないこととはいえ、あんまり無理難題を言わないで欲しい。

「なんか、疎外感を感じて嫌なんだもん」

「・・・・・・・・・疎外感?」

楽俊は呆気にとられて聞き返した。

「一線を隔されているっていうか・・・・・・。遠い感じがする」

一体何を言い出すのだろうかと楽俊は頭を抱えた。

首筋の後ろに血がのぼるのが分かった。きっと、耳まで赤くなっているに違いない。

一線を隔す。

当たり前である。自分と彼女は男と女なのだから。

そもそも気にかけないでいてくれるものの、自分と彼女は一介の学生と一国の女王である。

普通なら、一線を隔すどころの話ではないのだ。

「鳴賢とだったら、こんな風に顔を合わせないまま話すことなんてないんでしょ? 一緒にお風呂も

入れるんだろうし」

「〜〜〜〜鳴賢は男で、陽子は女だろっ!」

どうやら冗談だったはずの「一緒にお風呂」が相当のこだわりどころだったらしい。

「でもさ・・・・・・」

「あのなぁ、陽子。おいら、こう見えても正丁なんだぞ。そこんとこ、ちゃんと分かってるのか?」

溜まりかねてそう言うと、陽子は不貞腐れた様子でむぅーと唸った。

・・・・・・・・・素直に聞き入れそうにない。

楽俊は今度こそ大きく溜息をつき、立ち上がるとほたほたと衝立の陰に入る。

その後を不思議そうな陽子の視線が追ってきて。

「・・・・・・・・!」




再び姿を表した時、陽子が息をのむのが分かった。

この姿を見せるのは久しぶりだった。人型になるのも、袍衫を着込むのも窮屈だったけれど、陽子は

結局のところ、理屈では分かってくれないのだ。

実際に見せた方が早いだろう。そう判断してのことだったけれど。

ところが、人型になって、うろたえたのは楽俊の方だった。

湯あがりの陽子は濡れた髪が首筋に張り付き、肌は艶やかに紅に色づいていた。

薄物一枚羽織っただけの姿は変わらず、その様はもはや扇情的などという生易しいものではない。

理性が吹き飛びそうになるのを必死に抑えつつ、楽俊は生真面目に「叱るぞ」、という顔を作って

みせた。

「分かっただろ? 分かったら、ちゃんと服を着て、妙なことは言うな」

かなり危うくなってきたので、早々に終わらせようとぴしゃりと言ったつもりだったのだけれど。

「・・・・分かんないっ!」

陽子は駄々をこねるように首を大きく振った。

「なんで、触れ合ったり抱き合ったりしちゃだめなのっ!? 相手のこと、尊敬しています、

信頼していますってそういう気持ちは言葉だけじゃ伝わらないじゃない。 

蓬莱じゃあ、抱き合うのは普通の挨拶と変わらないし、裸の付き合い、って言って

男女関係なく一緒にお風呂に入るんだもん。 こっちの慎みも分かるけど、楽俊なら蓬莱のことも

理解してくれると思ってたのにっ!」

「ある程度は理解するけどな」

楽俊は熱をもった額を抑えた。

がんがんと頭痛がする。

こめかみがどくどくと鼓動を刻み、頭が真っ白になっていく。

陽子の首筋や袖から覗く細い手首、形のよい足の桜貝のような爪先。

そんなところばかりが目について。

「こっちにもこっちの事情があって・・・・」

「事情とか条理とか・・・・、楽俊がそんな・・・・」

―――理性が弾けそうになる・・・・。

「景麒みたいなことを言わないでっ!」

――――― 『景麒』?

「・・・・・・・・・・・・・・っ!?」

陽子は、自分で引き金を引いてしまったことに気がついただろうか?

「理解して欲しいのは、こっちの方だ・・・!」

きつく陽子の肩を掴む。

無視矢理出した声は、低く、うめくような声になった。

それが僅かにかすれているのを、楽俊は我が事ながら興味深く聞き取った。

「おいらが言ってるのは、こういうことだ。 挨拶とか、付き合いじゃない」

陽子の瞳を睨み付ける。

陽子の目にはおびえたような色があって・・・・・。

「触れたり抱き合ったりして、それが陽子のいう挨拶や付き合いを知らない人間だったら

どう理解すると思う? こっちじゃ、触れたり抱き合ったりするのはよっぽど親密な異性としか

しないことなんだ。 陽子がいくら挨拶のつもりでも、それを知らない男が勘違いしてお前に

触れた場合はどうする?」

「・・・・・つっ!」

楽俊は力任せに臥牀の上に陽子を押し付けた。

陽子が痛みに眉根を寄せる。

「・・・・・・こんな風に・・・」

楽俊は陽子に顔を近づける。

「楽俊・・・・・・」

紅の髪から、ふわりと甘い石鹸の匂いがした。鳴賢がわけてくれた、楽俊が気に入っている匂い

だった。

香るか香らないかというくらいの、初めのうちは爽やかな甘い香り。けれど残り香は、深く濃密で。

初めてそれを手にした時に、まるで陽子のようだ、と思ったことを覚えている。

・・・・・・・・・ゆっくりと、二人の影が重なる。

陽子の目からおびえの色が消えた。

そして、おずおずといった様子で目を閉じた・・・。 その一瞬、楽俊の脳裏を何かが横切る。

・・・・・だが。

(・・・・・・影?)

その直感は、論理の前で形を失った。

曖昧な直感の告げるものよりも明確に、理知によって構築された論理が警告を発した。

―――影。

陽子の、影。

使令は、麒麟の『影』に潜む。

それは、王を守護する場合にも同様で・・・・・・・。

「・・・・・・・・・・・・!!!」

崖っぷちのぎりぎりのところから、楽俊は飲み込まれそうになった理性を慌てて引き戻し、陽子の

体から離れた。

「・・・・・・・らくしゅ・・・?」

「・・・・これで、分かっただろ?」

ことさら軽い口調で、楽俊は陽子に笑いかけた。

あくまでも、叱るのが目的だったわけで、本気で襲おうとしたわけではないのだと。

その笑みをごく自然に浮かべることが出来たのは、巧国で送った苦労の日々のたまものだったろう。

陽子からは見えない位置で、その両腕が緊張でがちがちと強張っていたけれども。

「陽子が本当にそういう気持ちで接する相手にならいいけど、他の人間には、あんまり無防備な

ことはしない方がいい」

「・・・・・・らく・・・・・・しゅ・・・・・・ん・・」

叱ったためだろう。

ひどく疲れたような顔の陽子の頭を楽俊は優しくなでる。

「もう遅いから、寝よう、な? 明日には景麒も迎えに来るだろうし。なんなら、地門まで送るから

朱衡様にお願いして迎えに来てくれるよう手配してもらってもいい」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

気まずいのだろう。陽子は俯いたまま答えない。

それは、楽俊も同様だったので・・・・。

「・・・・・・じゃあ、おいらも風呂入ってくるから。・・・・・おやすみ」

そう言うと、楽俊は臥牀の傍の灯を消した。

そのままゆっくりと衝立の向こう側に回って、鼠の姿に戻る。

その直後、何やら陽子がじたばたと暴れているような音が聞こえて来たが、楽俊は苦笑しただけで、

それを聞かなかったことにした。

出来ることなら、楽俊だって暴れたかった。

先程のことを思い出せば、のたうちまわりたくなるような、絶叫したくなるような堪らない気持ちになる。

「・・・・・・・・・・・危なかった・・・」

おそらく、あのまま何かがあったとしても、使令が楽俊に危害を加えるようなことはなかっただろう。

たとえ使令が動いていたとしても、陽子が止めていたに違いない。

ただ。

その場はそれで済んだとしても、後で使令から報告を受けた景麒がどうしただろう?

それに、おそらく話を聞くであろう延王と延麒は・・・・・・。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

想像するだに恐ろしくて、楽俊はその不穏な考え事を強制的に終了させた。

「あともう少し・・・・。 卒業して、官吏になれたら・・・・・・」

陽子の傍にあることを、全ての人間に認めさせることが出来たら、その時は・・・・・・多分・・・。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

しばらくすると、陽子の立てる物音も聞こえなくなっていた。

きっとそのまま眠ってしまったのだろう。

湯の始末をして、床に毛布を敷いただけの寝床に体を横たわらせると、すぐに楽俊にも睡魔が訪れた。

(・・・・・・・・まぁ、色々疲れたからな・・・・)

もう夜更けとも言いがたく、夜明けまでほんの僅かしか残されてはいなかったけれど。

(明日は、陽子を王宮へ送って・・・・その後大学の課題を提出して・・・・・ああ、ついでに本も

借りねぇと・・・・)

段々と意識が遠くなっていく。

(とりあえずは、これで良かった・・・・・・)

そう思ったら、つきん、と胸の奥が痛いように感じたのだけれど。

(・・・・・良かったことに、しておこう・・・?)

楽俊は言葉に出さず、呟いた。

・・・・そして。

胸が苦しくなるというのは、息苦しいというよりも痛みに近いものなのだな、と。

楽俊は改めて思ったのだった――――。




















了.




2004.5.26.



お誕生日おめでとうございます。
こうして毎年貴女の誕生を喜び、祝うことが出来ることを、
皐妃さんと皐妃さんのご両親とに、心から感謝の気持ちを込めて・・・。(*^ー^*)

・・・・てか、本当にこんなのを贈り物にしていいのか、私・・・・・。(苦笑)



緋魚様から頂いた」「抱擁」

キタキタ〜〜vv今年も強奪・・・じゃなく頂戴致しましたよ、緋魚さんからのお誕生日おめでとうSSを!!
今年はもうコテコテ楽v陽なリクエストをさせて頂いちゃいましたv
今年のリクエストはそう・・・「何かしらの事情があり楽俊の寮室に陽子が一晩泊まることになり、一晩中無邪気な
陽子に男として振り回される楽俊」でした!!(爆笑)
ベタベタだろ?コテコテだろ!?これぞ楽v陽だろ〜〜〜!!?(笑)
そっち方面にはとんと疎い、もとい理性的、つーかヘタレな我らが楽俊の姿があますとこなく・・・嗚呼!!(卒倒★)
楽v陽はこのじれったさがたまらないんじゃ・・・!!!(鼻息荒)←ゲスな人がいます
いやも、拝読してて涙とヨダレが垂れそうなくらい楽俊が不憫でサイコーです!!←鬼畜生もいます
しかし一人称が「おいら」の我らが楽俊も人型となれば立派で健康的な成人男子・・・
敬愛をこめてヘタレと呼ばせて頂いていた楽俊がついに陽子を押し倒す!!
ああ、神様!いや緋魚様!!ありがと〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜vvv
しかもあそこまでいっておきながら結局できないヘタレっぷりがまたたまらんのですわ!!
いや〜、楽俊の特権ですね☆
ヘタレぶりが愛しいと思わせるキャラ万歳!!違和感なさすぎです(笑)

緋魚さま、今年も素晴らしいプレゼントをくださいまして誠にありがとうございました〜〜v



ちなみにアッタマ悪いオマケ絵があるんですが?勿論クレームは受付けませんぜ?
「古谷さんの外道ぶりは充分理解しています☆」という猛者のみ、アホ絵をご覧アレ・・・。





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