心の天秤は、いつも均衡を保とうと振幅を繰り返す。

好き。

身分。

好き。

立場。

 

 

………でも、好き。

 

 

 

*

*

*

 

 

 

 

『楽俊、どうしても会いたいんだけれど。良ければ慶に来て貰えないだろうか?』

そんな青鳥が来たのは一昨日のこと。

何か辛いことでもあったのだろうかと慌ててあらかじめ分かっている分の予定は全部前もって

片をつけ、迎えに来た班渠にのって楽俊は金波宮に来たのである。

慶に来る度に胸に突き刺さるのはその、距離。

いつも影が見える場所で助けてやりたいのに。

いつも息がかかる距離で慰めてやりたいのに。

幸い今回の陽子の用事は心配するようなものではなく、ひとまず安堵はしたのだが。

 

「楽俊も疲れているでしょう? 今日は泊まって行きなさいよ。これから帰るなんて大変だわ」

「そうしなよ!楽俊!! あ、勿論学校が大丈夫なら、だけれど……」

祥瓊と陽子に代わる代わる勧められ、楽俊は苦笑した。

「う〜〜ん。そうさせてもらおうかな」

正直、急な誘いだったし、かなり無理をしたから体力的にはもう限界だった。

これからまた班渠にのって雁に帰るとなると、冗談ではなく途中で班渠から落ちてしまう。

「すまない楽俊、私が雁に行ければ良かったんだけれど…けーきが崩れないかと心配で」

「けーきのことがなくても、王様がほいほい遊びに来るわけにはいかないだろ?」

楽俊は笑って応じる。

脳の隅っこでどこぞの国のはちゃめちゃ王様と麒麟とか、話に聞いたどこかの変わった綺麗な王様と

麒麟とかを思い出したが、知らなかったことにする。

「じゃあ祥瓊、楽俊に客庁の用意を」

喜々として方々へ指示する陽子を見ていた楽俊は、また複雑な気持ちになった。

遠ざかる。

彼女は一国の王。

自分はまだ一介の学生で、半獣。

 

 

準備が整うと祥瓊に案内され、楽俊は内殿から近い部屋を与えられた。

露台に出るとそこから広大な園林が望める。

過ごすのに気持ちのいいように、慎重に整えられた堂室。

陽子と祥瓊の気遣いと優しさがしみじみと伝わってくるようで、楽俊は心から感謝の言葉を伝える。

祥瓊が立ち去り、一人になって臥牀に横たわれば、すぐに睡魔が襲って来た。

明日は朝から出発せねばならない。勉強をしなければ。早く卒業しなければ。

………ここに来る事が出来ないのだから。

服もそのままにうとうとと微睡みかけて、ふと、何かを感じて楽俊は無理矢理起き上がった。

一瞬、頭の芯が鉛でも入っているかのように重くてくらくらする。

そっと露台から闇を透かし見て、楽俊は僅かに身体を強張らせた。

人の気配だった。誰かが、いる。

目を凝らす。

警護のものかと訝しんで、しかしすぐに、その考えを打ち消した。

細い月の光に反射するのは、薄い金の光。

麒麟。

「そこにいらっしゃるのは景台輔ですか?」

楽俊は静かに問うてみた。

相手はしばし戸惑ったようだが、やがて、意を決したのかゆるりと闇の中から現れた。

長い冷めた金の髪。長身の美貌。

その人物はまごうかたなき麒麟の特徴をそなえている。

景麒だ。

「散歩ですか? それとも私に何か?」

声が硬くなったのは仕方がない。今までのことからしたって、お互い様だろうと思う。

「主上に道を外させるようなことをしないでもらいたい」

「………………」

………この人は………と楽俊はこっそり息を吐いた。

馬鹿らしい、というのはまさにこのことだ。

前置きとか話の段取りとか、そういうことを少しは学習してみろ、と言いたくなる。

「それは、私が陽…景王を唆しているように聞こえますが」

「恋着は国を傾ける」

答えは簡潔だった。

景麒は、かつて王を失った。

王が、景麒に恋着したためだった。

ニ王を選ばなければならなかった麒麟の胸中は複雑だろう。

最初の王に思い入れがあるというのも頷ける。それが自分を愛したためだというのなら、尚更に。

だが、楽俊は冷めた目で見遣った。

「恋着が国を傾けたのではないでしょう?」

景麒が紫の瞳を上げた。

「予王の孤独が国を傾けたのでしょう?」

「孤独………」

楽俊の言葉に、景麒は目を瞬かせた。

「王に登極されてすぐ、予王は官吏と対立された。後宮に閉じこもり、表に出る事が少なくなった」

楽俊は淡々と語る。

「慶史を見れば分かります。予王は信頼出来るものがいなかった。王でありながら無力だった。

予王がそれで満足されていたと思いますか? 人の見下し、蔑む心はよく伝わるものです。

ましてや、失望されているということに気付かなかったと思いますか?」

景麒は俯いた。楽俊の推測したことが、事実のためなのだろう。

「予王は孤独だった。けれど、麒麟が選んでくれた以上、予王は王でした。

麒麟だけは王の味方です。麒麟を信じようとして、頼りに思って、それが恋着に摩り替わっても

仕方がないでしょう」

楽俊はひたりと景麒を見つめた。

「けれど、貴方は予王の想いを遠ざけた」

「私が悪いというのか」

景麒の声は冷たかった。

「予王が求めていたのは貴方の絶対の信頼だったはずです。けれど、貴方は口を開けば予王を

叱るばかり。失望されることに平気でいられる人間はいません。

しかも、絶対の味方であるはずの麒麟に、です」

「しかし、麒麟は臣下にすぎない。恋着されては困る」

「臣下といえども、命を共にする相手です」

楽俊は疲労を覚えた。自分と景麒とは、根本的に見方が違う。

「貴方もかつての祥瓊と同じだ。ただその形だけを見て、中身が何か、材質が何か、知ろうともしない」

景麒は眉を上げた。

「麒麟は王を選ぶという。では、選べばそれで終わりですか?選んだことに責任は持たないのですか。

あるいは、選ばなかった場合の予王の人生に責任を感じなかったのですか?」

「選定は天の意思であって、私の意思ではない」

「………!」

その瞬間、楽俊の瞳に激しい色が浮かんだ。

「だから王に向かないなどと言えるのですか。 選んだ貴方がその口で。

偽王で荒れた国を片付けもせず、安全な蓬莱にいた陽子をこちらに連れて来て」

「でなければ国はもっと荒れた」

「それは結果論にすぎない。一か八かの賭けならともかく、もうお目にかかれないと思った、と

貴方がそう言ったというではありませんか。貴方が偽王の手に落ち、陽子がどこかで倒れたならば

この国はもっと荒れていた。どうして国をまとめてから陽子を迎えに行かなかったのです?

陽子に誓約をしなければ、塙王も慶の王が誰か、分からなかったはずだ」

そうすれば国が荒れても、少なくともこちらの世界とは無関係な陽子や蓬莱の人々は傷付かずに

済んでいただろう。

実際、あの雨の日、陽子はもう動けなかった。あの日自分がいなかったらと思うと、背筋が寒くなる。

説明もせずに誓約し、無理矢理許すと言わせて運命を押し付けた。

なのにこの麒麟は助けられたことに悪びれず、陽子を選んだ時も辟易したというのだ。

仁の生き物だなんて、笑わせる。

楽俊は容赦しなかった。

「麒麟は哀れな生き物だ。条理の中に組み込まれた存在で、自由に生きることも出来ない。

けれど、麒麟であるという自覚のない貴方はもっと哀れな生き物だ」

捩れている、と思った。

景麒は麒麟と天を同一としながら、一方で景麒自身は傍観者なのだ。

延麒は苦しんでいた。けれど、王といる時は幸せを感じるのだという。

景麒は、麒麟であるということに苦しみも悲しみも感じない分、喜びも楽しみもないのだろう。

「では、私はどうすれば良かったというのだ。私は、麒麟なのだ」

…………ただ、自分を哀れむだけで。

「私に、それを聞くのですか」

楽俊の目に憎悪が渦巻いたことを、景麒は気付いただろうか?

特別な生まれつきによって、生き方を制限されたのは景麒だけでは、断じてない。

ましてや絹布に包まれ、天に庇護され、長じては王宮にあって飢えも労苦も知らぬ麒麟。

景麒は、知らなければならなかった。気遣わなければならなかった。

何故そのような条理があるのか、託された役目にどのような意味があるのかを。

一生口には出すまい、と楽俊は思った。

景麒が自身の感情を麒麟の性向として条理の枠に嵌め込んでいることも。

自分自身を誤魔化し、自分自身を哀れんで。

楽俊に嫉妬していることにも気付かない、愚かな麒麟なのだということも。

「仁重殿にお帰りください」

楽俊は言い放った。

景麒は楽俊をしばらく見つめ、そして来た時と同じ様にひそやかに後ろを向いた。

とろりと闇の中に紛れる。

金色の鬣。

姿を二つ持つのは同じ。

身分と立場に感情を押し殺しているのも同じ。

なのに、当たり前のように傍にいて。

楽俊は唇を噛み締めた。

澄んだ美しい心根であれと願って名付けられた。

憎まず、妬まずあれ、と。

清。

無理だ、と力が抜けた。

吐き気がした。床の上で蹲り、目を閉じる。

張、とは塙王と同じ姓だった。同じ姓なのに。

片や王。

片や半獣。

片や麒麟。

片や半獣。

噛み締め過ぎた唇から、苦く血の味がした。

 

 

 

 

 

 

 

*

*

*

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、またね。楽俊!!」

「うん、また近いうちに遊びに来る」

笑顔は自然に浮かべることが出来た。

「今度は私も行くから。本当に有難う」

陽子の微笑みにささくれ立っていた心が癒される。

昨夜のことは、誰にも話さなかった。もし言えば、八つ当たりだと罵られても仕方のないところだ。

………陽子なら、何と言うのだろう?

「気を付けてね」

祥瓊の明るい笑顔が眩しかった。

楽俊は班渠にまたがり、大きく手を振る。班渠が地を蹴った。

陽子と祥瓊の姿は、みるみる内に小さくなってゆく。

こっそり心配していたが、班渠は陽子に指示されてちゃんと楽俊を送ってくれるようだ。

麒麟と王とでは、どちらが優先順位が高いのか聞いてみたいとちらりと思う。

光景は風のように後方に流れていく。

しみじみと雁と慶の距離の遠さを実感する。

人と人の立っている場所の分しか隔たりはないと陽子は言ったけれど。

ならば、今のこの距離の遠さには絶望すら覚えた。

近付いてはまた離れ。離れてはまた傍に行く。

いつになったら、ずっと一緒にいられる?

どうすればこの振り子のような気持ちを止められる?

 

 

 

 

 

 

心の天秤は、いつも均衡を保とうと振幅を繰り返す。

好き。

身分。

好き。

立場。

 

 

………でも、好き。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

了.

2002.2.15.


言い訳はしません…。(^^;

漫画化においては、景麒のアングルと台詞のバランスで打ち合わせすることが
多かったように思います。あと、台詞でかなりダブルミーニングになっているので
その解釈の説明に気を付けましたかね・・・。 漫画化して頂くようになって、かなりお互いの
呼吸もつかめるようになっていましたから、それほど苦労した覚えはないのですが・・・。
いかがですか? 皐妃さん。(笑)


 

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